伊藤亜紗さんが國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの著作『〈責任〉の生成』について書評した文章をノートに書き写した。この書籍を読んでみようと思う。手書きでも書き写したけれど、ここにも残しておきたい。
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仕方なく・やむに止まれず・何となくやったことなのに「あなたが自分の意志でやったんでしょう、責任をとって」と言われる。どう考えても理不尽なこの責任概念を問いなおすために、哲学と当事者研究の専門家が対話を重ねた。
ひとつ、またひとつと掘り崩されていく、凝り固まった社会の盲点。思考の道具は、受動/能動とは異なる仕方で行為を捉える「中動態」の枠組みと、依存症や発達障害などをめぐる当事者研究の実践から生まれた具体的で豊富な知見だ。
何度も語られるのは、意外に思われるかもしれないが「味わうこと」がもつ力である。たとえば、水中毒という、精神科病棟でよくみられる症状がある。大量の水を飲んでもなお止められず、嘔吐、失禁、意識混濁などの症状が起こるほか、生命を脅かすこともある危険な状態だ。
熊谷は、山梨県立北病院が編み出したあっと驚く対応方法を紹介する。いわく「申告飲水制度」。水が飲みたくなったら「これから飲む」と申告してもらい、冷やしたおいしい水をみんなで飲む、というものだ。
なぜこれで水飲みが止まるのか。國分の「消費」と「浪費」の区別が手がかりになる。水を大量に飲んでしまうとき、その人は「毒を洗い流すため」などの観念に駆り立てられており、実は水を味わってはいない。つまり「消費」してしまっている。ところが申告飲水制度では、水をきちんと「浪費」している。つまり、水のおいしさとそれによって自分の中に広がる変化を「味わって」いる。味わうことで、出来事が起こる場としての「私」を、人はとりもどす。
現代は「孤独が危機に瀕している」と國分は言う。仲間とともにありながらも、自分の過去や傷と丁寧に向き合い、感じ、葛藤すること。そうすることで人は初めて、罪に応答できる人に、責任をとれる人に、変化していくのだ。迷ったり煮詰まったり、ひらめいたり、濃密でぜいたくな時間をくれる書。
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「罪に応答できる人」という伊藤さんの言葉がいいなと思った。罪をあがなうことも罪をゼロにすることも丸呑みすることもできない。応答することぐらいしかできない。
以前、リストカットする人にどう対応するかという話を聞いたときに「薄く切ろうか」「赤ボールペンでなぞってみる?」というふうに対話する、と聞いた。それも「味わう」だと思う。
この書評を知ったのは編集者の白石正明さんのTwitterから。
白石さんは医学書院の「シリーズ ケアをひらく」を立ち上げ編まれている編集者で、『群像』2021年8月号でこう語ったこと、以前メモしてた。このインタビュー記事は何度も読み返している。
「看護師が医者にうまく説明できないというのは、なぜそうなったのか、なぜそのケアがうまくいったのか、因果関係を言えと言われてもそれは明確にはわからないんですよ。パラメータがいっぱいあるんです。AさんとBさんの相性もあるし、どんなタイミングである言葉を言うかによっても結果が全然違う。だから、一回一回の偶然性に任せられる割合が大きい。医療現場ではもっと明確な法則に則った話が「科学的」だということで評価されがちです。でもそれって、ただ話の分母が小さいだけなんですよ。分母と分子の差が少ないから想定外のことが少ない。分母が小さい人には大きい人の話はわからないものです。まあこれは嫌みですが(笑)、そもそもきっちりした「法則」と「偶然」の間には、かなりグラデーションがあると思うんです。ケアはその部分を扱っているように見えます」
「僕らは自分の力だけで能動的におこなうことを「能力だ」と思っているけれど、それはとんでもない倒錯で、むしろ外部から何かがやってきて、それを受け入れることによって何かができるようになると、目を開かされました」
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普段の仕事では、因果関係がないもの、論文として受理されていないもの、エビデンスレベルが低いものは「科学的ではない」から「科学的なもの」を寄せ集めるような作業をすることが多い。もちろん科学的であることは重要なことだ。ただ、私は長いこと、ずっとそれが唯一の正解なのだから正解に寄せなくては、と思い込んでいた。「ここではいったん正解という過程で書くが」、という認識のもとに書くものと、「これこそが正解だ」と信じ込んで書くものでは、問いの立て方がそもそも違うし、描かれる景色はまったく違うものになるだろう。
文章を書く行為だけでなくそれは人をどう見るか自分の行動をどうみるかに通じること。
Enterを押す前にいったん閉じる。離れて、もたらされた時間。そこで湧き上がるものはなんだろう。苦悩であれ、味わってやる。すっかり忘れたころに、偶然のような顔をしてやってくるものがある。ボールを投げてみることも、ボールが飛んでくることも厭わずに、感じとってみよう。
