どんなにへたったときも、全身から力が抜けちゃったときも、
抱っこしたねこをかわいがるみたいに
わしゃわしゃーってしてくれて
「うんうん、なんでもいいよ」って
撫でてくれる手があることが、
いのちを生かすんじゃないかなってふと思った。
たぶん言葉じゃない。言葉は脳内で再生するうちに変化する。
手のぬくもりと、ぬくもりを受け取る力と。
そういうことを最近メンターSとやりとりすることで感じた。
その手に巡り会える人は幸い。そうでない人もたぶんたくさんいる。私は、本質的なそれを受け取ることができずに育ちここまできた。
だからその手を過剰に追い求めていたんだろうな。
いまはその手の存在を感じている。
元気なときは空気の粒からも感じることができる。
感じるだけで、言葉にしなくてもいい。
私は今日、大切な人へのメッセージに「トラウマ」という言葉を使った。
胸が痛むこと、体に反応がでること、それはトラウマと名付けるべきではなかったと
悔やんだ。
悪者ではなくて反応、言葉でかたちづくって決めたくはない。
これからこの痛みすら変化していくことにゆだねていきたいと、
Enterを押したあとに時間が経ってから気づいた。
あのひとは「距離を詰められるような接し方をされると死にたくなる」と
言ったことがある。
わたしの今日のメッセージは、まさにそれをしていたなあと
つくづく思い知る。
こんな自分の醜さも、変化し、風化していくことをいつか
枯れ葉が朽ちていくように知ることができたらいいなと思う。