以前、鳥羽和久さんがTwitterに記していた言葉。
「解釈への許容度が低い人ほど、解釈に対する自らの解釈には何の疑問も抱いていない」
きのう友だちに会った。
座る場所を探して、記憶が転がっている場所に行き着いてしまい、でも友だちと二人で行けば大丈夫だった。ベンチに座って、言葉にするのが怖いと思っていたことも淡々と話した。両脚はガクガク震えていた。でも、なんてことない感じでふんふんと頷いてくれるから、言えた。
タイ料理食べたいね!の気分でお店を探し、美味しいタイ料理にありついた。たくさん話した。
話しているうちに、それまで思っていなかったこととか、考えている途中の断片が浮かんできて、それを話しているとまた次の言葉が出てきて。
不思議だった。帰りの電車で「サイコロが転がったみたいだ。別の側面が見えてきた」というのがゆいいつ浮かんだ言葉だった。
今朝すぐに仕事に向き合う前にその余韻を思い出しながらもうすこし考えてみたいと思ったので、走りにいった。スカイツリーを眺めながら27キロ。
走りながら思考していた。
ひとには静寂の場が必要。そこがあることを体が知っている、という場。必ず戻ってこれる場。
その場を知らないうちに、自分の裂け目や傷ばかりを表立たせると、大切な感覚がぼやけて、「否」というものに正直になれなくなってくる。気づかず、自分につけた重りをさらに追加していく。
静寂の場とは、自分にとっては今のこういう感覚だろう。速度27kmぐらい、風を切りながら漕ぎながら、体は解放されていて、ただ心地よい。寝ているときより、歩いているときより、思考が走るから。
解釈を狭めたり、解釈を広げたり、動きながら遊んでいこう。目標なんて必要じゃなかった、目的だって。このところずっと、「何をしたいか」を見失っていて途方にくれていた。そもそもそれじゃなかったとわかった。どうありたいか、なんだ。
ただ流れていこう。「流れる」「動く」動きだけに意識を向けよう。
今日はそんなことを思った。花に久しぶりにカメラを向けたことに気づいた。向こうにはお馬もいる。


