きのうは自転車乗りに行った。
大雨のあとで、冠水して通れない道もあって迂回したりして。
海は濁っていて波が荒かった。空には天の川みたいに雲が渡っていた。
お腹が痛くて、ペダルを漕いでいるとだんだん足先まで痺れてきた。それでも乗らない理由はなかった。
「生ききる」という言葉が浮かぶ。今日私が自転車に乗りたくて実際に乗ることができたことも「生ききる」の延長線上にある。
原稿を書ける気がまったくしなかった。引き続き『消えた冒険家』を読み、少しだけギターの練習をしてゆっくり過ごした。
冒険家の親のもとで生まれ育ち、冒険の旅をするようになった彼はあるとき消息を絶つわけだけれど、少しずつ読み進めていると彼がどうしようもない運命の渦のようなものにじわじわと巻きこまれていることが、この本を手に取っている側からは見える。
残されたものは、あのときああすれば、と何度も時間を巻き戻したくなるだろう。それでも。彼は水から飲む水をくんで湧かし、焚き火をおこして暖をとり、ただ生ききっていた。
物語を読んでいるとき、あるときから終わりの予感のようなものが見え始めることがある。
生きていく道のりもそうで、潮目が変わらない、なんてことはおそらくなくて。急にやって来るように思えるから驚くのだけど、本当はいろんなサインを見せている。どうする? 選ぶ?
見ないふりをしたり、歯を食いしばって耐えたり、そのうちやっぱり波に飲まれたりする。厳しいなぁ。
割り切れない思いを抱えながら生きていくっていうことが本来の自分の姿なんだろうかと思うと、波打ち際に打ち付けられたような清々した気持ちになる。認めたら相手はお化けではなくなる。ばいばい、お化け。出てきたくなったらまたおいで。
夜、こぐまちゃんが「明日学校いきたくなーい。5月病っていうけど6月病だ」と言ってくる。「だよね、ママもキラキラした12月が嫌いだし、いったい楽しい月なんてあるんだろうかって思う。……って、いまママはネガティブモードだからこんなこと言っちゃっててごめん」。ほんとごめん。
今朝は原稿に取りかかってる。書けるような気持ちがしてる。
このページにログインすると、ともだちが描いてくれた絵が出迎えてくれる。
広くて、大きくて、それは海のようであり、空のようであり、うたのようであり、友だちの心のようでもあり。私はここに着地すればもう安心できるのだ、と唱える。唱えることがうたならば、もうとっくにうたを聴けるようになっている。

