今、仕事で双極性障害のことをあらためて整理していて、もちろんずっと思っていたことだけど私はこのタイプに近いんだろうなと思った。受診すればそうかもしれないと言われるんだと思う。軽躁のときにはいくつもの仕事を同時進行させて、内容はともなわないだろうけれど仕事も早い。むしろ軽躁に持っていけばはかどるからその状態のときになんでも片付けてしまおうと思っているふしもある。
小さい頃から厄介な家族が何人もそばにいて、ケアを引き受けてきた、あるいは傷を受けてきた、そう思ってきたけれど、私もそうなんだな。
わたしは看病する側が長かった。怖い思いもした。なんとか繋いできて何年か前にぷつんと糸が切れた。
それから、いろんなことが起こった。
どうしてこぐまがそんなに私を心配するんだろ、心配症だなと思ったけど、本当に心配をされているのかも。寝込んだり復活したりしてる私のこと。
病名をつけてほしいわけではない。
病名は、薬を処方したり、医療の仕組みのためにあって、それで解決するわけではなく、
まず自分はそうなんだなと、元気なときにちょっと自分から逃げられて、自分を騙しているところがあるなと、ちょっと気づいた。私が敵と「戦う」のは偽の元気があるとき。エネルギーが湧いてきて、あとさき考えず刃向ってるだけ。
頭の中が混沌としてきたから、仕事に戻ろう・・・。
大切なのは。それらは過去のことで、いま私は冷静にPCに向かっていることだ。
過去に同じように感じていたことが、今は少し違った角度から見える
ということは、とてもなんだか大事なことのような気がします。
今の自分だから気が付くこと、今の自分だから受け入れられること。
そういうのを 変化 っていうんだなーって、前の記事と共に、そう感じました。
それをまた別に大袈裟なことと捉えていない。
なんだかそこも似ていて、ああ、おんなじところにいるんだなーって、嬉しく思いました。
感じてくれたこと、伝えてくれてありがとう。
うん、あのときの脆弱な私は今はいなくて、どこかに隠れていて必要なときにはまた現れるかもしれないんだけど、同じ現れ方はしないだろうとわかっているっていう感じ。
ひとに頼ることは素敵なことだし、ぜひやったほうがいいときもあるいっぽう、
ひとを頼る前提でいることとは大きく違うね。
いま浮かんだのは、川縁で風に吹かれながらともに歩いてるイメージ。
体調不調できちんと歩けないので、イメージのなかでは
てっくてく歩くよ。