先週末、ダンスの友だちに久しぶりに会ったときにそのあと勝手に自分が落ち込んだことがあった。
ときどき連絡をくれて、会おうよと誘ってくれる人。「全然mちゃんに似てない人なのに、道端でふと、mちゃん!って思う人がいたんだよ」なんてことをいう友だち。
何ヶ月か前にそんな連絡がきたとき、会えないなぁと思いつつ「どうして私に会いたいと思うの?」と聞いてみたら「mちゃんはどう思うかわからないけど、似てるんだよね、私たち」と言われた。
その友だちは大変な苦労をしてきた人だ。親を亡くした姪っ子を育ててきた。不登校の彼女が自傷をするのに向き合ったり。
似ているというより、私をその子と重ねているのかなという思いが、数日してから湧いてきて、労られているのかなと思ったり、そんな流れで長く慣れ親しんだ自分責めスイッチが入ったんだろうと思う。
相手がどう思っているかなどわからないのに。
そうだとしてもそれならそれでいいじゃない、と思うのに。
そこから、私はこの3年、あの人が自分を好きなわけがない、と信じ切っていたことを繰り返し考える。今更わかってもしょうがないこと。そうやってどこかに反省の糸口を探している。でもそこで、切り離す。ときどき細かなことに気づいたら、思い知ったら、無理に打ち消さず、フラットに認めよう。時間が経つ。もう折り返せないところまで到達したことはわかっている。そしてなにか気づいても決して伝えないことで、距離は伸びていくから。
自分がどう思っていたかなんて今になって思い出せるわけがないとも思う。生きているこの時間に地獄のようなものも天国めいたものもそうでない不明なものも混じり合っているように、人と人との間にも、言葉に尽くせない感情が交じり合っている。なにかが満ちて、終わるだけ。
今日はある自治体の取り組みの話を書いている。以前より、無駄な気負いを背負わなくなったと思う。大変な作業をしているんだよ、と認めてもらったことで、不思議なんだけどすごく軽くなった。効率よくやろうと画策するとまったく進まない。というかはねつけられる。要素がトランプをまき散らしたように広がってる前でぼんやりする。時間がたつと、満ちてきて、あるべき場におさまる。行ったり来たりしながら待っている。
人と会ったり話したり って思った以上にパワーを使ってて
それは相手が誰かにもよるんだけれど、結構完全に気を許せる人っていうのは少数なんじゃないかなと最近思う。
それは 誰かの思考 にも同じことが言えて、例えばSNSでも、ああ、今はここの関係はちょっといいや、、、って思うこともある。自分の受け皿が小さいのか敏感なのかお疲れなのかは分からないけれど、そうやって自分で判断して進んでる。
仕事の場合はそうはいかないから、とても大変な作業なんだと思う。だから 思考の切り離し や 割り切り を、その方法や術を一緒に探してみよう。これって仕事に限らず、人生において大事なことだと思うんだよね。
こんな話ができることが、有り難く嬉しい。
いつもありがとう
umiさん
きのうこれを読んでから、すごく楽になった。
「その方法や術を一緒に探してみよう」という言葉がとてもうれしかった。
探していこう、っていうこと。
解決しなくてもそう思えて、ともに考えてくれる人もいるってことがありがたいよ。
わたしも。
あと、SNSは私は人混みとか集団の集まりに参加したときのような気持ちになることがある。「気」が渦巻いている気がして。実際にそうなんだろうな。情報の欠片だけぽいっとつまみ出すためにうまく使えたらいいと思ってる。