こぐまは、坂口安吾が大好きなんだって。私も大学時代に「堕落論」にはまって、それをいま、こぐまが買って愛読している。
「好きなのに、書かれていたことは忘れちゃうんだよね」って言うから、
「勉強のときとかテストのときみたいに、記憶したり、読み解いてなにを問われるか推測するのとは違うんじゃないかな。本を読むって、そのかたまりを体の中に通す体験で。知らないうちに脳や体のどこかで記憶してて、ふとしたときにその体験が立ち上がったりするもんじゃないかな」なんて答えた。
それというのも、私は、とある喪失をしたときに、よしもとばななさんの「王国 その3」を思い出したから。ああ、この心象風景はあの小説のあの場面だな。
そう思ったけど、受け止めることがつらくて読めなかった。ずっと読めなくて、こないだふと、ページを開いてみた。
決定的なことが起こってしまったときと、雫石がそれをすでに察知していたこと。そして薄皮で包むように、ではなく、明解な言葉で相手に伝えることしかできなかったこと。それがとても雫石らしくて清々しかった。たぶん相手は、その言葉を「きつすぎる」と思いながら受け取ったと思った。でも、いつか、何十年かさきに、きついだけじゃなかった、と思い返すかもしれないと思った。
星が遠くで光っているみたいに、言葉が時間や空間を超えて成仏することもあるだろうと思った。
音楽、言葉、絵……、そのときすぐに言葉や感情に反映されないものもあるだろう。
それでも、投げてみたいし、体をただ通すように受け取ってみたい。
ああ、そうか。
そう思えばいいんだな。
その場しのぎや勢いだけで言葉を発しなければ
こう思えると思いました。
どれだけ考えて大事と思って放った言葉も
その時に相手に伝わらずに、最悪の場合拗れることがあっても
ちゃんと よく考えて伝える ということをしていれば
それでいいんだなって、気持ちが軽くなりました。
間違った時はちゃんと ごめんなさい だけれど
謝る必要がない時には、あとはそう思うことにしよう。
いやぁ〜、これは本当に助かりました。笑
刺さった棘を抜いてもらった感じです。ありがとう。
刺さったトゲが抜けたなんて、とってもうれしい。こちらこそありがとう。
あとね、よく考えないで伝えることも私はわりとある。
相手が真剣に、聞いて欲しいって感じで話すとき、相手の話もすでにこんがらがっているから、全身にしみこませるように聞いてみる。で、自分じゃないような低い声が出て、自分が思ってないようなことを言って、相手がびっくりしたことあるよ。でも、あとから考えてもあれでよかったなって思った記憶。
たとえ相手が傷ついても、知るべきことってあると思うから、そういうときには私とはまた別の外側からうけたまわたって伝える感じ。でもそのときは、ふだんはそんなに交流がない人だったから、距離があったからだろうな。
そして、だいたいの場合、ひととは距離をおいていたい。
体の中を通すときも、好みの考えじゃなかったり好みの生き方じゃないと、中を通すと自分がやられちゃうからさ。
あ、私じゃないね。だいじょうぶ、あなたの道を歩んでねって思ってばいばーいって離れる。
そんなスタンスをいま意識してる。ちょっと前までドツボだったくせに。
あと、いま思ったんだけどね。
メルカリとかで私が購入相手とやりとりをしていて、裏地を見せてとか寸法を測ってとリクエストされて受けていると、「たかが中古なんだから、それを受け入れられないやつは店舗で新品を買えばいいんだ」って家族が言うの。なんかさ、中古を売ってる自分ごと否定されたように、ほんのつい最近までは思っていて、傷ついたりしてた。しかし、最近、購入相手がわがままっぽい仕草を見せると自分の心が「たかが中古なのにさ」って言うんだよ。てことは、嫌だと思いつつも、なるほどそうだなって思ってた自分も存在していたってことで。それをちゃっかり自分のコントロールに役立てているんだから、不思議だよね。
AとBという両極があったとして、限りなくBに近いAもあるし、AとBの間でゆらゆらしているのもあって、どこに目盛りを置くかは自分で、とらえたものをどう消化するのも、消化する当人の自分なのだったら、自分が傷まないようにやってけばいいのでは?って思った。