いま原稿を書いているんだけど、今朝浮かんだような詩を書くことと、両輪なんだなと思った。
原稿は最初に目標を規定する。誰にどんなことを伝えたいか、どんなふうに役立ててもらいたいか、考える手がかりにしてほしいか、というようなこと。
その規定したものが灯台のようになる。余計なものは削いで、まっすぐな道にしていく。
いっぽうで、詩は、目標も規定せず、その使い道もない。空間に切れ端を置き風に飛ばすようなもの。思惑のようなものに侵食されないようにする。
両輪。
どっちもギラギラしててどっちも冷静。
それとはまた違う話だけど、
これまで欠けたようなところがある人を見ると私はすすーっとくっついていくようなところがあった。
その様子を見てみたくて、話してみたくて。
でも今はそういうタイプの人が怖い。距離を縮めたいと思わない。
人それぞれで生きているっていうことが、よくわかったんだと思う。
自分で生きることをはなから諦めているような人が怖い(それはかつての自分だから?)。
なんだろうな、私は邪魔な看板があったら蹴っ飛ばすぐらいの人間になりたい。
ここまで書いて、自分には怒りが溜まっているんだなと思う。それはそれで仕方がない。
ひとつ言えるのは、つねにあった雑音のようなものがもう聞こえないということだ。
人とやりとりしてて「ん?」と思ってもそこで終わる。いつまでも取っておかなくなった。
原稿書きながら「迷う」「足りない」「筋が通ってない」と思ったとき、自然と粘っている。粘る力がついてきたんだと思う。力がついていくに従って、私はこの先、誰になる?何を言い出す?そういうこと、楽しみにしている。
私は邪魔な看板があったら蹴っ飛ばすぐらいの人間になりたい
ああ、そういう気持ちの時なんだね。
いや、いいと思うよ。本当にね。
ガンガン蹴っ飛ばして歩いていって。
私があとからニコニコしながらついていって
ちゃんと建て直すから。(クソな看板は私も更に蹴っ飛ばします。笑)
最初の文章さ、こういうのに私も最近気がつくこと多いな。
全く違うようで、でも繋がってるような。
逆のようで同じところもあって。それをどう思って感じるかは自分次第で。その答えや感じ方もいつも同じじゃなくていいし、正解や正論じゃなくてもいい。でもやっぱり 無関係 ではない、というようなこと。
粘る力 かぁ〜
楽しみだな。まるで乾いた大地がゴクゴクと水を吸収するような、そんな印象を受けるよ。どう変化していくのだろう。
私も楽しみだなぁ〜
でもさ、なにより 楽 だよね。自分が。自分の心が。
これに気がついたから、翠雨さんにも気付いて欲しかったし
一緒の大地に立っていたかったんだ。
それが私たちにとって、いい方向にいってるんじゃないかと、私は思ってる。
umiさん
面白い!
そっか。にこにこしながら看板を立て直してくれるんだ。
なんか絵本のお話みたいだね。
だんだん私たちは笑いはじめるんだろうね。
いつかさ、かたちにならないもの、世界にまだないものを
作りたいって書いたときumiさんが共感してくれたでしょう。
少しずつそういうことが起こっているんだと思う。
一緒の大地に立ってるなぁって思うよ。
小さく手を振ったら、お互いわかるもんね。