カウンセラーの先生と話をしてたとき、「自分の性格や行動を規定しているこだわり」についての話になった。先生は「理屈に合わないことが嫌」、どんな方向から質問をされても答えることができるしそういったことが得意だけど、理屈に合わないことに従うことが大嫌い。うまくいったときもどこか自分で理屈に当てはめているなぁ、と。
私は「自由を制限されることが嫌ですね。我が儘なんですけど」と答えた。子どもの頃から帰る時間を聞かれるのが嫌だったし、いつもどこかに行きたいと思うし……。先生は「なるほど、もう少し突き詰めることができるかもしれません」と言う。
「たとえば……仕事で勝手に日程を決められたり、このときまでにこれやってくださいねって一方的に決められたりすると嫌ですね」と言うと、その出来事のなかで何が嫌だった?自由が制限されたことなのか、勝手に自分の時間を使われるようで嫌だったのか、打診なしに一方的に決められたことなのか、と質問される。「うーん。どれも当てはまらないかも。今思ったけど、下に見られた感じが嫌だったのかも。従うもんだと思われたこと。別のときに別の人にだけど、仕方ないよ、下請けなんだから、と言われたときにすごく傷つく感じがあったことを今思い出しました」というと、先生は「下請けじゃない、一個の人間だ」って思ったんだよね。それがあなたのこだわりの一つなのかもしれないね。もちろん、私は下請けなんかじゃない、一個の人間だと思うのはいいこと。でも、そこを刺激されるといつも落ち込んだり、不必要な怒りが出てくるとする。「私は主体性のある人間だ。だから今回のように扱われると嫌な気持ちになる。そうされたことにたいしてちょっとだけ相手にひと刺ししよう。日程調整に関しては事前確認してくださいね、とひとこと言ってみる。ほら、これがこだわりを緩める作業」。
「現実に合わせて、こだわりの加減を合わせていく作業が、生きるという作業です」と先生はおっしゃった。
そのときにぶつかったことで、背後にあるこだわりが見える。飛び出してるゴツゴツしてるものをちょっと撫でてやる。
いまのやりかたでは、なぜだかいつも壁にぶちあたる、でもだからといっていまのやり方をゼロにしてしまったらまた別の壁にぶつかる。こだわりごと抜き取ってしまったらぐらぐらになっちゃうかもしれない。ほんのちょっとハンドルの切り方を変えるだけ。それはすっきりすることでもなんでもないのだけど、結果的に自分を痛めないことになる。だいたい、そのときすっきりしたことなんてたかがしれてる。
今日は原稿を送ることができたけど、ちょっとしんどいことが2つあった。で、どよんとしたけど夕飯を明るいうちに作っちゃって、おいしいペスカトーレができたから持ち直した。打ち寄せる波みたいに、行ったり来たり。
ああ、そういうの、あるなーって思った。
それを私は 心のバランス と思ってて
凹んだ何かを別の何かで埋めたりする。
それが埋められない状況、たとえばもういっぱいいっぱいのところに
さらに被せられてくるような状況とか
今日は無理って時に、それでも、、、ってなってきたりすると
苦しいなぁーと思ったりする。
先生の言う「でも、そこを刺激されるといつも落ち込んだり、不必要な怒りが出てくるとする。」
こういうのがとても嫌い。この怒りは不要でしょ?って思う時、1番嫌。
きっとみんなそうなんじゃないかと思うけど
それを誰かに向ける人もいてびっくりするよね。
良いヒントがいっぱいあった。
umiさん
お疲れのところなのに読んでくれてありがとう。
埋まらない時ってあるね。
そういうとき、眠れるようにコンディションを整えておきたいなと思う。
ちょっと眠れればちょっとリカバリーできる。
umiさんは勉強すればよかったって書いてたけど
umiさんの書くこととか表現に向き合う力は常に学びの姿勢で、
こうしてコメントくれるとき、いつもすごいReport力だなと思うよ。
私も学ぼうと思わせられる。
やだなーもう。
褒めすぎだし、私評価高すぎ。笑
いつもあんがと。
そうそう。私も基本は睡眠でリカバリーしてるので
それを阻害されるともう最悪って思う。
人よりも多く寝たい習性なので(多分)
燃費が悪くてすぐに疲れちゃうし、でも少し寝ればチャージできるし。
そういうのを自分で分かってて、あとは相方に理解してもらえてる時は楽だけど
相手のストレスの方が勝っちゃってると、最悪の結果となる。
昨日の会議は酷かったよ。
あんまり深入りせんどこうと思った。←また追々。