本についての続きです。
十四歳のとき、ぼくの孤独は極まっていました。
クラスメイトに陰口を言われたり、無視されたり、ものを盗まれたり。いじめともいうべき状況です。
本当なら、人間の尊厳を踏みにじられたことに対して、毅然として怒ったり、悲しむべきです。ですが、そのとき、ぼくは怒ったり悲しんだりするよりも、「自分を見てくれている」という喜びを感じていました。
今振り返ってみても、自分の感情のいびつさにゾッとします。
齋藤陽道「孤独から芽吹くことば」より
「自分の感情のいびつさ」に、腑に落ちるものがあった。
なにかを押し殺していると、どこかにひずみが現れる。
中学時代、白いセーラー服に緑色のマジックでぐしゃぐしゃに落書きをされたことがある。
部活では先輩という名前の一つ年上なだけの人達に囲まれて「言い込み」という名前の罵倒を定期的に受ける担当だった。
修学旅行の自由行動の夜もひとり、部屋で水戸黄門の再放送を見てた。
制服の出来事があった日は担任に報告し、そのことで学級会が開かれたが、クラスの人たち以上に私は他人事みたいにすましていた。卒業式のアルバム、みんなで寄せ書きをする白いページは、放送禁止用語や卑猥なイラストで埋まってた。親は見たのだろうか。覚えていないけれど。
たぶん喜びを感じていたんだろう。自分のことはとっくに他人事にしていて、そのいびつさを思い出し、陽道さんのことばに、「私もそうだった」と共感するだけではあまりに薄っぺらいと思う。
フリーになりたてのころ、ドラマの「ER」にはまっていて、「あんなふうに寝ずに仕事をして、しかもあんな深刻なトラブルに対峙してるあの人達より自分はまし」と思ってた。薄っぺらい。
辛い人の話を読んで、「わかります」と思って消費する、それしかできないときもある。でも、消費はいつか卒業し、自分のいびつさに向き合ってバリバリ噛み砕いて消化し違うものに変身させたい。
自分の人生を生きようとして、何かを望むことは、まずそこに自分の身から発された思いがなければできません。こうしたいと自ら思い、自ら外に働きかけていくには、それがはじめ、わずかな動きしか起こせない微かな力であったとしても、最低限の気力がいるのです。
岩﨑航「踏み出した“重み”を足がかりに」より
最低限の気力が戻ってきたと思う。
きょう、散歩しながらこぐまが「ああ、ママとずっとこうして散歩していたい。受験の時期、そんなに病まないで過ごせたのはママと散歩できたからだ」と言った。
「それは私こそだよ~」と言ったけどそれ以上言葉をつないだら涙が出そうだったので「散歩はいいよね!」と言った。

こぐま、幸せ者。
そう言ってもらえる翠雨さんも。
こういった 感情のいびつさ と言えるような
同じような経験が少ないというか、自分自身にピンと来ないので
いったいこんなことが起きるのはどの世界だ!というくらい、聞くたびに驚き憤る。
自分自身を振り返っても、転校生だからとか
上に姉がいるからとか、そういうのは想定内だし、まあね というくらいで。
薄っぺらくはないよ。ちっとも。
そういう 無くてもよかった経験 がある人ほど
それをまた 同じくされたことを繰り返す人 と
その苦しみを知ってる人だからこその行動 は違ってきて
後者のそういう人に救われる人がどれだけ多いことか と思う。
ありがとう と言いたい。
最低限の気力、よくここまできたね。頑張った!本当にそう思う。
翠雨さんは繊細で心地よい人。
そういう人は気持ちよくいてほしい。
いろんな過去の要らないのもたちは遠くのほうに。
少しずつそうなっているといいなと思う。
umiさん
ありがとう。
ずっと見ていてくれて。
私もumiさんには本当に、気持ち良くいてほしいと思う。
がちゃがちゃしたものたちは遠く行ってくれーと思うよ。
うん。要らないものは遠くなってる、確実に。
そしてもう取り込まれないためにこうして書いているんだと思う。
とはいえ、どこかに自分を鍛えなきゃとかまだまだ甘い、ぬるいと思うから薄っぺらいと書くんだろうね。
ということにも気づかされたよ。
ぬかるみにハマってもすぽんと足を出していくよ。
これからも歩いて行こう!