夜中に目が覚めて寝付けなくなったときのさいきんの方法。
左手の手のひらに、右手の中指の先端をのせて、触れるか触れないかぐらいの小さな圧で、
くるくる回す。
左手は「触れられている」、右指は「触れている」、だんだん右指が「触れられている」を感じる、左手が「触れている」になってくる、そこに意識を向ける。
「わたしのからだ」だと感じる。
日常のなかで忘れていること。
くるくるしながら、「あれも、これも、忘れていい」と解放していく。
5年前ぐらいから、記事をつくるとき、最初から最後まで自分で決めることがほとんどになった。
心は20代のままだったりするから、「本当にこれでいいの? 私が決めてしまっていいの?」という不安に足を取られることがある。
フリーランスといっても、併走している人がいたから、頼っていたんだなと思う。
この間、自分が避けていたその人が監修という立場で入り、オンライン取材した。
いま、音声起こしをしてる。
「今日は僕は黙っていますから」といいつつ、ときどき会話に入ってくるなか、やはりその人のフレーズは「うまいな」と思う。
やってやる、ひらめいてやる、という気持ちが沸いてくる。
見あげる先に誰かがいるということはもしかしたら必須のことなのかもしれない。
そういう人が見つかるといいな。
すでにたくさんいるのかも。
一人でやるというのは自由なことだ。でも一人でやっているわけでなく、
頼られているし、頼ることもできるということを思い出したい。
積ん読の本を読み返す時間を作って、おいしい言葉を摂取して、あんなふうに世界を見てみたいと思える人を見つけたい。

可愛いおまじない、教えてくれてありがとう。
わたしは相変わらずここんとこはよく自分を俯瞰してて
「解放感を味わうことは善きこと」にも書いたように
自分をよくみてる。
あと不安になったり、困ったときに
「さぁ、ここで「不安になってる自分」を変えられる気持ちや考え方はどんな方法か」みたいな
自分のギアをチェンジする方法をよく探してる。
切り替える。離れる。放す。固執しない。
少し関わったからといって、ある程度出来ることをしたけれど、その人にとっての成果につながっていない場合に
ずっとその人を気に掛け続けることが出来ない自分の状況があることも知った。
(何言ってんだか分からない言葉でごめん)
自分が両手で抱えられる量なんて、たかが知れてて
きっとやった分だけの成果や結果を待てるほど、私には余裕もなく。
そんなふうに 一旦離して考えよう とある意味では切り捨ててる人も今2人いる。
集中すべきの中心は自分にある。
そんな中で
「あんなふうに世界を見てみたいと思える人を見つけたい。」
と言える翠雨さんには希望があって、それはとても美しい。
私もそう言える状況を作るべきだと思った。
あんがと。
umiさん
umiさんのおまじないも教えてくれてありがとう。
自分のギアチェンジね。なるほど!
うん、ずっと気に掛けるなんてできないよ。手渡したことが魔法であって、その魔法の使い方は君に任せるっていうぐらいでいいさ。
集中すべきの中心は自分にあるって、なんかかっこよくて、いいなと思った。これもいただき!
そうそう。そういう存在って、神様のようなものだと思うけどそれでは大きすぎるので
書き手でも、どこの国の人でも、いま生きていない人、なんでもいいから、支えになるような人を見つけたいよ。