好きな話がある。芋虫からいったんさなぎになると、その中でドロドロの状態になる。
それから細胞や組織が組み替えられ、そののちに成体になる(三木成夫さんという生理学、発達学の先生のお話で、うろ覚え)。
人は基本的に変化を嫌う。安心な環境にいれば、食べるもの・住む場所・接する人間など、「いま生きられている」事実下の環境のほうが生存確率が高いからだ。
でも、なんの流れなのか、それともふとした思いつきなのか、変化がやってくる。
変化に対する期待で気分が上がるのは一瞬で、実際に変化の渦中は、過酷で、面白みもなく、消耗する。まさに、ドロドロになる。
でもそのドロドロは、理不尽は、次に進む一過程だったのだと、未来になると思うのかもしれない。
そう思えば、ドロドロはただのドロドロになる。
ドロドロぐるぐるから顔を出して、冷たい空気に触れるときが来る。そのとき、すんごい爽やかな顔で、にこって笑えるといい。なにものか、実体のないものに向かって。
変化 については思うことが山のようにある。
だからまたこれは別の機会に語らせて。笑
ここ数年でいろんな変化やある意味でのドロドロを経験したと思ってる私からすると
やっぱりどれも 自分の心持ち でしかない と思う。
いろんなことを考えて、怖さや不安やどうしようもない気持ちも抱えながらも
その中で本当に苦し紛れにみえるものを必死に見つめて。
そしてね、「これが最後」って思わないの。
そこに依存しない。別に軽薄なわけじゃないけど、ここに骨を埋める気持ちなんてさらさらない。
そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。
要は「変わることを恐れない私でいたい」ってあっちから引っ越してくるときにそう思った。
それは今も同じ。
安定なんていつ不安定になるか分からない。
同じことを繰り返した先に潰れる会社は山のようにある。
小さな変化は常に大切。
だから考える。自分を見つめる。
こういう状況になっても最後に自分に残るものは何か?
最後に自分が残したいものは何か?
そう常に問うことが大事と思うけど、こういう話って殆どの人には通じない。
でもそれでもいいと思ってる。
「ドロドロぐるぐるから顔を出して、冷たい空気に触れるときが来る。そのとき、すんごい爽やかな顔で、にこって笑えるといい。なにものか、実体のないものに向かって。」
きっとね、実態のなさそうなその正体は
日々日々自分に問うて生きてきた確信 なんだと思うな。
その状況下でもにこって笑えるのは、今に執着し切って、ずっとこの状況を変えたくないと
頑なに気持ちや想像までも固執していたら難しいと思うんだよね。
そんなに難しいことじゃなくて、今すぐにそうできなくても
自分の興味ある形や生き方や好きなことや気持ちのいいこと、心地よいことを
ちゃんと見つめておくこと。
そうすると、きっと今の現状を断ち切られても
「あ!じゃあコレ出来るな!」ってニマッとすると思う。
いっつも長くなっちゃう。笑
umi さん
おはよう。
朝の冷たい透き通った空気みたいな言葉たちをありがとう。
日々自分に問うて生きてきた確信、そうだね。
私が書いたものは、
それってなんだろうっていうところで
終わっていたけど
そこに見事に引き継いで書いてくれたね!
これが最後って思わない。
その感覚、私もわかるようになった。
わたしもね、いまのこの地域や家は暮らしやすいけど
でも、いつかべつのところで暮らすかもって思うとき、わくわくする。
そういうわくわくって、
毎日の暮らしや、仕事の一部でもあるよね。そう思える気持ちの芽みたいなものをいつも育てたいね。
何度も読むね。ありがとう。
私自身もまだ 過程 の中にいるし、
きっと自分の人生を終えるまでそれは続くのだと思うけれど
今はそう思うし、今はそう感じている
って感じかな。
翠雨さんの文章にコメント書くと
自分で自分が思っている以上にスラスラ書いてて驚く。笑
言葉も感じ方も真っ直ぐに吐き出してるから
ああ、今自分はここにいるんだなっていう
自分の精神上の立ち位置がわかったりしてありがたい。
あんまり迷わなくていいところでは迷わずに
思い切りチャレンジ精神を持って臨みたい。
電気工事士の試験終わって、イベントが終わったらちゃんとこの後の
自分の形を再確認したいと思ってる。
いつも課題と議題をありがとう
umiさんがすらすら書けているって聞けてうれしいよ。
白くて書きやすい紙みたいな存在でいたいなと思う。
考えて、言葉にしてみるのっていいよね。
ずっとずっと過程でいたいね。
もしかしたら死んでも過程なのかも。