今日は新連載の原稿を書いている。
じつは、この取材ではとても褒められたのだった。
「ここまで我々の研究を調べてくれた取材者はいない、感動しています」と言われてすごく嬉しかったのだった。でも実はその取材直前まで、内容が難しくてふて寝しつつ「さいあくだ」と思っていた。市ヶ谷のレンタルスペース(高い、1時間30分で2400円ぐらい)を借りてオンライン取材した。
時間が経ってまたあらためて資料を読み直すとやっぱり難しく、褒められて調子に乗っていた自分が情けなく、きのうはどんよりと一日を過ごした。
今日はまあまあ、書けそうな気持ちになっている。
冬至の日に作ったかぼちゃだんごのぜんざいは上出来だった。
ちょうど幼なじみの家に遊びに来てた長女も「なにこれおいしい~」って喜んだ。
1歳になったばかりのうくる(あだ名)にもかぼちゃのマッシュをあげたら、器にかぶりつくみたいに食べてた。

もうぜったいに書けない、と、だいたいの仕事で原稿に取りかかる最初に思う。
それでも、好きな本ではいろいろな書き手の人がそれぞれの絶望を語ってくれているので
「こんなの当たり前なんだよな」と思える。
さいきん見直しているデンマークのドラマ「ブラインデッド」、きのうはシーズン2の「ブラインデッド:ゾウズ・フー・キル」最終話を見た。
プロファイラーと容疑者が、終盤で偶然の出会いをする。
容疑者は冷酷な殺人鬼なのに、日常では親切な手助けをして、二人は惹かれ合う。
幼い頃に同じように傷を負い、その傷同士が引き合う。一方は殺人者、もう一方は人をケアする支援者。支配される側になったら殺されるという緊迫感のなか、プロファイラーが言葉を重ねながら立場が徐々に入れ替わっていくシーンが見事だった。
書いているときも、こういうことが起こる。書けない、なぜなら、と理由を並べ立ててる自分から徐々に入れ替わって能動的になると、書けるフェーズがやってくる。
こないだゆずジャムを作った。
小粒の無農薬ゆずを買って、種をとって絞って皮を刻んで。けっこう時間がかかって、くたくたになった。毎年、父がゆずみそを作って送ってくれていたけど、この数年、なぜだか食べられなくて処分していたのだ。どうしてもお腹に入れられなかった。手に持つことすら怖くて。でも、ゆずを刻んでみると、作業するときに無心になる気持ちとか、器を煮沸消毒したりとか、こんなに手間がかかるものだったのかと思った。もう私は、処分したりしない私になっているのかな。その手間を理解することができてよかったと思った。もう支配する側にもされる側にもなりたくない。それが現在地。

うんうん。
今の現在地、ちゃんと見つめられてて良いね。
いっぱいいっぱいに忙しかった自分も
もう少しで時間ができるので、ちゃんと自分の現在地を見つめようと思える文章だった。
ありがと。
また追々。
風邪引かないようにね。
湯たんぽちゃんで温まろうね。
umiさん
ありがとう。
現在地って、ふと見えるね。
そういう時間を持てるようにいきたいね。
迷っていた仕事をいっこ断った。
まだ悔しいけど、そうやって自分を追い込まないように調整してくのだ。
umiさんも、おつかれさま!!
あたたかく過ごしてね♡