きのうロードバイクに乗りはじめたとき、ちょうど向こう側から男性がふらふらっとやってきたのでよけたら、「バカヤロウ」とドスのきいた声で言われた。
はぁ~と思ったけどその数分後に目の前にしょっぱいにおいの海が広がったから、心も平穏になった。
戻ってきて自転車のタイヤを外していると、通りかかった男性がにこっとしてきたので「こんにちは、暑いですね」と言ったら、「いいね、これ軽いんでしょう?」と自転車を指さす。いっしょにいたひとに「気持ちよさそうだよねぇ」とニコニコ話しながら車に乗り込んで去って行った。ほこほこした感じがした。
3月に実家に帰ったとき、寝ようとしていたら呼び出された。「ずっと忙しくて子育ても大変で、辛い思いばっかりしてきたなぁ」と、またいつもの話を繰り返される。
麻酔医の話になったので次女が緊急入院になったときのエピソードを話したら「そんなこともあったんや」。覚えてないのか。あのとき助けて欲しい、と言ったけど「頼らないで」と言われたんだけどな。まあ、覚えてないものなんだよなと思った。
私は「お母さんは私のことを、かわいそうだという。今日もこの会話のなかでもう5回ぐらいその言葉を使っている。でも私は自分をかわいそうだと思っていないので、かわいそうだと言われると悲しいので、言わないでほしい」と言った。
「たとえばお母さんに親しい人がいるとして、その人が、家にくるたびに、あなたはかわいそう。娘さんが遠くにいて会えなくてと繰り返し言われたらどう?」と言ったら、「ああ、もっとそばにいたらええなあ。遠いから寂しいしな」というので、たとえ話を間違えたと思ったけど、私のこの気持ちは、伝わらないんだろうなと思った。でも、父もいるその場所で、言うことができてよかった。
寝る前に、母が眠る部屋のふすまをあけて、「まあ、かわいそうって言ってもいいよ」と言った。そのあとマッサージをした。うつぶせになった母の肩甲骨をさわると、板みたいに薄っぺらかった。
ゆうべ考えていた。通りすがりの人も、遠くに暮らす母も、いや、ともに暮らす家族だって、その口に入ったものがどういう味をしているか、同じものを食べても自分とは感じ方が違うはずだ。目の前に広がる空だって、違うふうに受け止める。だから言葉にする。同じなのかな、違うのかな、と問うように。
ひさしぶり。
読んでてヒリヒリした。
ドキドキっていうのかな、落ち着かない感じ。
思った言葉や想いが届かなかったり、響かなかったり
それはもちろん発する側の「なにか」もあるのはあるんだけど
(状況とか言葉のチョイスとか空気とかいろんなもの)
でも結局、どうこねても、どう立ち回っても
ダメな人にはダメなんだと思うことが多いね。
年寄りをいっぱい相手にしてると、本当にいろんな年寄りがいて
自分中心でしか物が考えられない人も少なくない。
そんな中でとびきりの素敵な年寄りも居なくはない。
その後者になれるようにと、反面教師と思いながらそこからも学ぶしかない。
でも私は誰も言い返せないような年寄りにもガンガンに物を言うから
殆どのそういう年寄りはちょっと面食らって、こいつ面白いなってなってる。
でもそれは他の人たちみたいに聞いてて聞いていないとかしないし
しれーっとしないで本気で付き合ってるから。なんじゃないかなーって最近思うよ。
書いてくれてありがと。
実家に帰って、こうやって想いを寄せるところが貴女の優しいところ。
そこは本当にすごいと思うよ。
あとね。
相手のことを かわいそう と連呼するのは
きっともう治らないんだと思う。
それはお母様の性格だよね。
そう思いたいんだろうね、悔しいけど。
その言葉を違う言葉だとしてキャッチしていこう。例えば通常私たちが感じている言葉の
「かわいそう」ではなくて「自分の(お母さん自身の)近くにいなくてかわいそう」みたいな。
そしたら意外と貴女の心にくる引っ掛かりが少し軽くなるかも。
私はいつもずっと相方に言われて嫌な言葉も
自分にとってのそれじゃなくて、相手にしてみたらもっと軽い程度かも
と捉えるようになったらものすごく楽になった。
でも過信は禁物だからちゃんと心には留めるけどね、一応。
分かりにくいかもな、また書くね。
umiさん
ありがとう。
その頑固なお年寄りも、そんなふうな新鮮なやりかたでぶつかってくる人がいること、
面白く受け止めて、なんかが変化していくかもしれないね。
かわいそうの意味の変換、いい発想だな。
そんなふうに、ちょっとちがうところに光を当ててみるといいね。
よくわかった。
最近は、自分の拠り所というか、戻ってくる場所が強固になってきて、
なにかがあっても、うん、過ぎていくし、自分は乗り越えるんだ、って
仕事の面でも思えるようになってるよ。
変わってないようで自分も変わる。
おたがい、着々といこうね。
♡