今日、ある会社の人とのオンラインの打ち合わせが終わった後、相手が「AIに作らせました」という動画を見て欲しいと言われて見た。
ある論文を動画にしたという。5分ぐらい。ちょうど遊びで、Gammaを使ってみたばっかりだった。自分が箇条書きにしたものを放り込んだら、スライドにしてくれて、イメージ写真やイラスト、図なども作ってすごく「それらしく」なってた。すごいねぇって思って。
それと同じように、出来上がっていた。
その人は「すごいですね」って言ってほしかったんだと思う。
でも、「なんだかすごくAIぽいな、という印象があって。ナレーションも、図のあしらいも。せっかく論文をもとにしているのに、偽物ぽくなってもったいないなと思いました」
3つぐらいのAIを使って作ったのに、とその人は不服そうで、ハリウッド映画だってAIで作れる時代が来るそうじゃないですか、という。「ライターさん仲間では、AIが脅威だとかいう話は出ないんですか」と言われたので「まだ脅威とは思ってません。自分の手間を肩代わりしてもらうことにAIを使って、考える時間を増やせるように使うっていうやり方をすればいいと私は思ってる」と答えた。
この間、ある制作会社の方が「ある会社は商品説明をAIに書かせているそうで、仕事をとられた」と言っていたので、そのウェブサイトを見せてもらったら、すごくいい加減な、偽物臭がぷんぷんするもので、これまた悲しくなった。
なにかを知りたくて向き合った結果、偽物をぶつけられたら、悲しくなるでしょう?
この悲しさはなんだろう。
町中至る所に、いらすとやさんのイラストが溢れているのも悲しい。いらすとやさんはAIじゃないけど・・
いまみたいに、AIぽい、と判定できるうちはマシなんだろうか。
AIが本当の文章と同じになったら、違和感という感覚は消えてしまうんだろうか。
ふだん思ったこともないのに、ねこを抱きたくなった。
全然なつかない、抱くとあったかくて骨がごりっと動く感触がする、ねこ。
プロアマ問わず、きっと「言葉」に深い敬愛を抱いている人には
きっと その言葉の本質 みたいなものが当たり前のようにキャッチできてしまう分、そうじゃないものへの
拒否感とまではいかないかもしれないけれど、なんらかの感情が動くのだと思う。
自分の人生でどの立場に立っているか でも違うのかもなと思っている中にね、
こういうことがあって。
https://suzuri.jp/Macrorian/products
時間がなくて中途半端になってるんだけども。
この中のスマホケースの商品紹介の文章、遊びの気持ちでAIで作ってみたら
自分じゃ絶対に書けない文章が書かれてて。
私自身、自分の何かを大袈裟に表現したり伝えたり出来ないんだよね、昔から。
でもこんなふうに書いてくれると、それはそれで受け取る側には世界観が広がるなと
素人の私は思ったりした。
いろんなことの情報やものが溢れてる現代ではきっと、全てにおいて多種多様が当たり前で
同じ感覚や感性が合う者同士とそうでない者が普通にごちゃ混ぜになって生きてて
その中で 自分の佳し を大切に生きる くらいなのかなーとか思う昨今。
そのくらい人に出会えば出会うほど多種多様できっとお互いに響く響かないもいっぱいなんだと思う。
きっと感じている違和感はずーっと残ると思うな。
そういう人もいて、そうじゃない人もいる。ただ、それだけ。
そういうことばっかりだなって、よく思うよ。
umi さん
suzuri、オープンしたんだね~!おめでとう。
そして、この紹介文がAIなの?
不思議だな。なんかumiさんが書いたのかと思うぐらい
違和感感じないけどな。
いろいろなんだね。AIもね。
umiさんのコメントしてくれたことを読んでいて、
「いろいろだ」ということを
私は感じにくくなっているんだろうと思った。
リアルで人にも会わないし、
出張はなくなり都内への取材すらオンラインがほとんどになってきて、
だからオンラインであってもとても縮小された人間関係で、
一個一個を棘のように感じてしまうんだろうな・・・・
そういう自分を自覚できてよかった。
そして、違和感も大切に、わがものとして向き合っていくよ。
ありがとう。