きのう、なんかぼやんと気づいたことがあった。
自分は洞窟みたいなところでじっとしていたい。
下手すると、洞窟の奥にもっと怖い場所があるとしたら
そこに行きたいと思っていた。
浮上するのが怖くてたまらなかったから。
浮上すると、いろんなことを見なくてはいけなくなる。
自信がないこと、この先が不安なこと、人を怖がる部分がまだ強いこと、とか。
もっと怖い場所に行ったら浮上しなくてすむ。
でも、歌を作ってみることは、すぃーと引きつけられてやってみた。
削られるようなことでもない。散歩してるみたいにちょっとやってみて
下手でもいいさとギターを弾きながらやったこと。
でも、それは浮上することに向かった行動ではあった。
その行動をしても、受け入れてくれる友だちがいることを思っていた。
作った歌を聴いてもらうって、相当恥ずかしいことだと思うんだよね。
なのに私はそれを躊躇無くできている。なんてありがたいことなんだろう。
優しい人がいることを全面的に信じている行為。
愛されるかどうかというより愛しているよの行為。
「あなたはブンちゃんの恋」に出てくる暴走ニンニク豆腐さんという青年は、幽霊に簡単に体を乗っ取らせることを許す。使っていいよ、って。
「みっちゃんはなんですぐ身体を手放すの 死にかけるのに」と問われると「回復したいんだ 回復していくとまわりがきれいに見える
全部新品になったみたいでほっとするから」って答える。
オバケの力を借りてでも生きようとする人。
なんか共感してたんだよな。
乗っ取られたいと思ったかもしれない。
ずっとそういうことをしていたように思う。

私は自ら苦しみを選んだわけではなかった。
でも、確かに、生き返りのあとの景色を見ようとしている。
洞窟から手のひら半分出す程度だけど、
やってみてよかった。
そして、人間のことが怖かったり自信がないことということは
たいしたことでもなくて、そう思ったっていいけど
そればっかりじゃない自分のことも知っていこうと思った。
今日は午後、髪を切ってくる。またショートにしよっと!

こぐまの学園祭Tシャツ。文言を自由に決めていいというので、おすすめしたら採用された。
なんか凄いTシャツ!笑
今っぽいというか。いいね✨
何かを発信する というのは
何かを作る というのは
本当に その人 が表現されるものだから
本来その全てが恥ずかしいなと思う行為なんだと思うんだよね。
文章を書いても
「えーこんなこと思ってるのー?」とか
曲を歌っても
「なんかこの人の声、あんまり好きじゃなーい」とか
何か作っても
「大して良くないよね」とか。
この世の全てはそういうもので溢れかえってて
家を作っている人でも、決まり事を作っている人でも
本当は何にでも当てはまる。そんな気がする。
誰かの何か を(例えば会社員で決まった仕事をしているような?)する時くらいは 「私じゃない誰かの代わりに」って思えるから、そこから逃げられそうだけれど、でも結局「それをどうやったか」は、その人がジャッジされるわけで。
だから自分を発信するような作業は、本当に自分への評価になるんだなって、私は怖いなと思うこともある。
って、これって自分のブログに書けよって文章だよね。
一個前然り。ごめーん!
手のひら半分でも指の先っちょでも髪の毛一本でも
少し出すと見えることがある。
その全てが 良き ではなくとも
新しいポイントを貯めるつもりでやってみるのは好き。
umiさん
そうだね。
確かにこの世はそういうものであふれかえってる!
表現したい、は人間の根源的な欲求なんだなー。
法律や政策を作っている人にも
そういったものが織り込まれると思うと面白いな。
いや、昨今の政策に織り込まれているものを思うと
虚しくなるけど。インボイスとか・・・
新しいポイントをためるのか。
そういう感じ、いいね。
umiさんはウォーターアートを公開するときには
どんな気持ちなのかな。恥ずかしかったりするのか?
また聞かせてね。